血統の森+はてな

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終劇 - JRA賞の議論あれこれ

自分の誤りをJRAの投票制度のせいにするべきではないでありんぐ・はぁと

そもそも記事見出しは論理が破綻してないか?という疑問はさておき(いや自分で撒いた種かもしれない…ガクブル)そろそろ区切りをつけますか。

act1 前提条件あるいは価値観の違い

リファで結構面白いこと言ってる人がいるのでチラッと触れることにします。

全体的な話で言えば「記者は自覚を持って責任を持って選ぶべきだ」というのはどう考えても正しい。
こう言われたら、そりゃそうだな、プロってそういうもんだし、
競馬は文化だスポーツだ言うならこのJRA賞はいいかげんにやるもんじゃないわなで終わりですよ。

(中略)おれの考えでは、
常々言っているように、競馬記者のみなさまは一刻も早く「プロ」になってほしいと思うのですが、
テレビやラジオに出るような目立つところでさえ、そんな人はごく少数というのが現状であり、そんな話は理想論。
記者のみなさまに過度な期待をかけることはとても虚しいことだと思います。ハイ。

まあリンク先でいろいろと言われてますが(苦笑)、不要な喧嘩は避けることにします。

この議論における私の中の前提条件として、投票する記者には期待をしていないから、JRA賞という手のひらの上で自由に踊ってくださいな、というのはありますね。大の大人にね、自覚を持てとか言っても聞かないと思うのですがね。記者にはもう自覚をとかそういったものをハナから期待していない醒めた見方がそこにはあると。

というような議論の前提条件あるいは価値観の違いからくる、齟齬みたいなものがあったかもですね。結局のところ、記者の自浄能力には期待していないという側面があるから、もし変えるならば制度を変えるしかなかろうという方向に強引気味に持っていったところは否めない。

act2 制度上の制約と数の問題

この制度ということばの使い方もよろしくなかったかもしれない。一つの制度は現行の投票者数の多さを差しています。
制度上の問題=数が多い、だから紛れが出る、数の多少関係なしに紛れは関係ないはずだ―という展開ですが、意外とこの制度という言葉も紛れがあって―殿下の言葉を借りてくると、

むしろ、200人も集めるならば、ある一つの判断に全会一致的に向かうというよりは、もうちょっとその年の競馬に関する鳥瞰図的な数字を作り上げることが求められるのかな、という気もしてくる訳で、そういうコンセプト的な所に対して記者が忠実に行動する、言わば、記者が責任を持って「そういう結果を作ろう」とする結果、現在のJRA賞に関しては、当然選ばれて然るべき馬以外に票が入るような結果になる、ということでしょう。

記者が記者だからこそ採ってる当然の帰結ではないか、という見方。選ぶべき馬を選ぶべし、という本来のあるべき制約の下で、理論上どの馬に入れてもいいわけですが、本来のあるべき制約、例えばGⅠを最も多く勝った馬を無条件で選出すべしと言うような暗黙の了解のようなもの、を逸脱してしまうと、傍から見ればおかしな理由でもってしか選出できない――その年を代表する馬でなく、その年一瞬でも輝いた馬を入れようとする、JRA賞の本来あるべきだろう意義とは別の力が働いているに違いない、という見方。

その上で、そういった各部門1頭を決めるのではなく、ある程度の馬を選出してその中から選ぶようにしてしまえば、一見おかしなように見える紛れも、自然な流れになるのではないか、という主張。

act3 仮定や憶測、想像の限界

振り返ってみると、あまりにも仮定やら憶測、想像に頼ってる部分が大きすぎた(投票が一堂に会するものではなく、FAXでするものであった、というのはその好例)ために、この議論が議論として成り立っていたのかどうかすら怪しいと言うお話も多分に。何が問題だったのか見失った面など、いろいろあったのではないかと。さて、

直接聞けっていうのは筋ではあるな。

arikuiさんも指摘していますが、そういった仮定や憶測、想像を越えて、やはり投票された記者の方々に直接尋ねてみるべきでしょう。納得がいかないというなら、納得のいかない原因を作った張本人に問い合わせるのが一番だと思います。それこそ、ここであれこれと推測しても無意味なことです。

惨劇を嗤え(某同人ゲーム風)に簡単な投票結果のまとめと、問い合わせ先がありますので、よろしければどうぞ。

act4 おまけ

自分の誤りをJRAの投票制度のせいにするべきではない←この自分ってmomdoさんのことですか(えー)
お後がよろしいようで。